税理士登録をすると「税理士の使命と倫理」という一枚の紙が渡されます。その紙には次のように記されています。
「税理士の使命:税理士は、税務に関する専門家として、独立した公正な立場において、申告納税制度の理念にそって、納税義務者の信頼にこたえ、租税に関する法令に規定された納税義務の適正な実現を図ることを使命とする。」
これは税理士法第1条に記されている文言です。
みなさんはこの税理士法第1条の内容が改正されるきっかけとなった税理士とその事件についてご存知でしょうか?
この税理士法第1条は昭和55年に改正されました。それまで税理士の使命は
「納税者の権利を擁護し、法律の定められた納税義務の適正な実現を図ること」
すなわち納税者の権利を擁護する色が強いものでした。
この税理士法改正に際して、ひとりの税理士が、税理士の立場を「中正な立場」から、独立性を示す表現に改正することを国会議員や主税局等の関係者に提言し続けました。TKCの創設者である飯塚毅税理士です。
飯塚氏の提言によって、最終的には「独立した公正な立場」の文言が第1条に採用されました。この独立性とは、職業会計人が絶対に守らなければならない事実上の独立性であり、内容は関与先に対する
- 廉潔性(心身ともに清潔な態度を保持して業務にあたること)
- 正直性(良心に従って事実の判断を偽らないこと)
- 客観性(常に第三者の眼をもって適正に業務を遂行すること)
の3点といわれています。
この税理士法第1条の改正に奔走し、独立した公正な立場に立った租税の実現を目指した飯塚毅税理士といえば、別段賞与をめぐる税務当局との係争である飯塚事件の当事者としても有名であり、2006年に公開された東急系の映画「不撓不屈」でも描き出された「飯塚事件」の主人公となった人物です。
税務行政史上に残る飯塚事件とはどのような事件だったのか?
画像引用元:TKC全国会
この税務行政史上に残る飯塚事件とはどのような事件だったのでしょうか。簡単に概要をご紹介させていただきます。
飯塚税理士と別段賞与
飯塚毅税理士は「事実をして真理を悟らしめよ」「一円の取りすぎた税金もなく、一円の取り足らざる税金無からしむべし」と創業以来叫び続け、職員を指導し、関与先を指導してきました。昭和36年ごろから、大企業に比べて経営基盤の脆弱な中小企業の経営者および従業員を支援したいという思いから従業員に対する利益還元型の「別段賞与」の支給を節税対策として編み出し指導してきました。
この「別段賞与」についてもう少し詳しく説明すると、期末の決算整理において、法人に利益が出た場合に従業員の努力の成果を考慮してその利益の一部を従業員に対して還元するため、概算利益の2割以下程度を「別段賞与」支給の適正限度額とし、その事業年度では未払賞与として損金計上しておき、資金事情が好転した適当な時期に支給を実施するというものです。
源泉税を払った上で従業員からの借入金に振り替え、一定の利息を払いながら5年から10年の間で分割して返済するという形態を取りました。
別段賞与の規定は今でこそ厳格な要件が定められておりますが、当時の税法上では全く適法なものでした。
飯塚事件の引き金
昭和37年10月16日飯塚毅会計事務所は東京国税局長を相手に関与先2社の「別段賞与」の処理をめぐって税務訴訟を起こしました。別段賞与が架空賞与であるとして否認されたことに対する訴えです。被告の東京国税局は権威の失墜を免れようと飯塚税理士の脱税幇助の証拠探しに躍起になっていきました。
それまでも改正税法の説明会で国税庁の役人が税理士を前に講師をした際、不審点を指摘したり、筋違いの更正処分があれば反論したりと税務当局との理論闘争では負け知らずという飯塚税理士は税務当局にとって少なからず厄介な存在でありました。
税務当局による「脱税指導の疑惑」も
こういった理由から飯塚毅税理士に目を付けていた関信局と東京局は「叩けば何か出るだろう」という予見をもって昭和38年6月24日飯塚毅事務所と関与先企業の調査を開始しました。調査は鹿沼税務署、宇都宮税務署、栃木税務署、佐野税務署、大田原税務署の5税務署管内の関与先法人25社に及びました。
同年8月には業界紙により関信国税局では飯塚税理士を脱税指導の疑いが濃いとして税理士業務の停止か、場合によっては税理士資格の抹消ということもありうるという内容の記事を発表しました。
税務当局・検察による追求、従業員も逮捕へ
そして同年11月19日から本格的な大調査がスタートします。関信局は鹿沼・宇都宮の2税務署から、飯塚毅会計事務所とその関与先69社の一斉調査に踏み切り、連日80人の調査官が投入される大規模な税務調査でした。調査は執拗をきわめ、当局は関与先に対して飯塚税理士との顧問契約を解除すれば調査に手心を加えるなど卑劣な手段で「脱税指導」についての証言を取り付けようとしました。毎日のように朝から晩まで調査に来られるため中には本業をできなくなり倒産寸前に追い込まれ、泣く泣く別の税理士に修正申告を頼む関与先も現れました。
そして検察も国税当局の要請を受けて飯塚毅税理士の自宅や事務所の捜索を開始。昭和39年3月14日ついに宇都宮地方検察庁は税理士法第6条(脱税相談等の禁止)違反の容疑で事務所の職員4人を逮捕しました。
足かけ7年、約70回におよぶ裁判がスタート
飯塚事件の裁判は昭和39年5月1日の第1回公判から判決の下された昭和45年11月11日まで6年6か月の間に約70回の公判が行われ、公判には100人近くの証人が出廷したとも言われています。この裁判の争点は「被告らが関与先に別段賞与として計上することを指導したことに脱税指導の犯意があったかどうか」を核に争われたものでした。裁判が長期化したのは検察側が証拠物の開示を一部拒み、証人によって公訴事実を立証したことに大きな原因があったと言われています。対して弁護側は証拠物の全面開示と裁判の迅速化を当初から訴え続け、後半になって検察側が立証方針を切り替えて、ようやく迅速化が図られました。こうしてついに昭和45年11月11日、職員4人は証拠不十分で無罪を勝ち取りました。
飯塚毅税理士は、国側に損害賠償を求めるべきといった弁護士の声に従わずこの事件を終結させました。次のステップである会計事務所のコンピューター化に向けて全力投球している最中だったからです。
TKCの前身・栃木計算センターの設立
「独立した公正な立場」に立った租税の実現を通じて、中小企業の健全な発展を目指した飯塚毅税理士は、渡米により中小の会計事務所を高性能なコンピューターで支援する必要性を感じ、昭和41年栃木県計算センターを創設しました。現在では税理士会員数1万人を超えるTKC全国会に発展しています。
おわりに
「別段賞与」は今でいう「決算賞与」といえます。現在の税法では決算賞与を損金処理できる条件を厳しく定めており飯塚事件で争われた「別段賞与」のスキームはもう使えませんのでご注意ください。(ご興味がある方は法人税法施行令第72条の5をご覧ください)
今回ご紹介させていただいた飯塚事件とは少しニュアンスは違うかもしれませんが、現在でも納税者と課税庁の争いは続いており法の網の目をくぐった節税スキームと税制改正で「いたちごっこ」とも言える現象が起こっています。一方で、現実には節税と租税回避の区分は大変難しい判断となり、税務を生業とする税理士にとって永遠のテーマでもあります。
「会計事務所のための税制改正事件簿」では、これまでに話題になった税務スキームや税務関連事件とそれに伴って行われた税制改正をシリーズとして紹介していきます。